最終更新日 : 08.07.27

棒高跳びの歴史

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■ 棒高跳びの歴史的背景

その昔、羊飼いが杖を使って川や柵を跳び越していたことが、その発祥であるといわれいます。そして段々と仲間同士で川幅や柵の高さを競うようになり、それが競技化するようになったことが棒高跳びの原形として出来あがったようです。
高さを競うのですから、当然に使用する杖や棒は跳ぶ高さに見合う長さと折れない丈夫なものが求められてきます。当時、どのような素材のものが使われていたのか定かではありませんが、ヒッコリーという堅い木の棒を使うようになるのが 19 世紀後半のようです。当時の記録としては 3 M の記録が残されているといわれています。(日付、競技者、場所などの詳細は未確認です。)

競技としての棒高跳びですから身体能力の向上は必要不可欠のことですが、棒(=ポール)という用具を使う以上は、その物自体の改善や改良もまた必要不可欠なことなのです。高く跳ぶためには、その高さに見合う長さの棒(=ポール)を必要とし、それを使いこなせる身体能力と技術が必要になってくるのです。
ところが棒(=ポール)の長さを要求すれば重さは、それに比例して重くなるわけですから必然的に限界が見えてくることになります。
そこで、用具としてはヒッコリーに変わる「丈夫」でしかも「軽い素材」で「長い棒(=ポール)」が求められることになります。それらの条件に応えられる素材として竹が見出されました。

ヒッコリーに代わって竹ポールが使用されはじめたのは、1900 年代からと言われています。そして竹ポールを使用しての記録は、詳細がわからないのですが、アメリカの選手が 3 M 68 の世界記録を出しているようです。1900 年早々の記録かと思いますが、この後年々跳躍記録は伸びていきます。まさに今まで培われてきた競技者の身体能力が、充分に用具へ伝わり、表現することが出来たのではないでしょうか。跳躍技術においてもヒッコリーのそれと竹とでは、まったく違ったものでしょうが、それぞれどのような技術であったのかは残念ながらわかりません。この件については専門書ならびに専門家に委ねる事にいたします。しかしながら竹ポールの「しなりの強さ」や「反発力」が跳躍に充分に活かされた事は容易に理解する事はできます。そしてこの用具の変化によって 40 年後には、1 M 09 も記録が伸びることになるのです。

[1942 年 『 C・ワーマーダム選手 =アメリカ』 4 M 77 の世界記録樹立。]

一方、竹ポールは日本製が良いと評価されていましたので、多くの生産がなされていました。日本選手にとっては、手に入り易いということと竹の性質を熟知していることから竹ポールに馴染み易く、その利点を充分に活かすことができたのでしょう。
世界の中で日本選手の活躍は見られるのもこの時期でしょうし、「棒高跳び日本」の一時代を築くことに繋がっていったのかと思うものです。
ここにひとつの記録を聞くことができるのですがそれは、アメリカ・スポルディン社のスポーツ年鑑によるのですが、1905 年に『藤井 実選手』が 3 M 66 を記録して、さらに翌年の 1906 年には 3 M 90 の記録を出していることが記載されているということです。
日本選手の活躍のはしりがここにあったことを伝えていることになるでしょう。
しかしなんと言っても、私達が見聞きして知っている棒高跳びの輝かしい歴史は教科書にも載ったという、あの「友情のメダル」の『西田 修平選手』と『大江 秀雄選手』のベルリン・オリンピックでの活躍が第一番目に上げられるもので、大いに誇れる活躍として特筆できることでしょう。

[1936 年 『西田 修平選手』 『大江 秀雄選手』 4 M 25 ベルリン・オリンピック 銀・銅メダル]

しかし、跳躍技術の進歩にともなって「より高い跳躍」が可能になってくると竹ポールでは技術能力を活かしきれず、むしろ技術に追いつかない状況になってきたのです。そしてその結果はポールが折れるということが多く生じてきました。用具としての致命的なその危険性は、ポールの改善を加速することになり、また日本からの輸出が途絶えたことから竹ポールの歴史は終焉をむかえるにいたったのです。
竹ポールに代わって金属製のポールが開発され外国選手に使用されるようになっていき、徐々に普及することになります。
しかし金属ポールでは、記録の伸びが期待できない状況でした。時代背景もその要因ではありますが、記録的にみますと18 年間にわずか 3 cm の更新であったことが、それを物語っています。
金属ポールの性質において、その限界は周知のことでありました。そしてこの時期に棒高跳びの高さの限界は 16 フィート(= 4 M 87 )とささやかれていました。

[1960 年 『 D・ブラッグ選手 =アメリカ』 4 M 80 の世界記録を樹立。]
[1961 年 『 G・デービス選手 =アメリカ』 4 M 83 の世界記録を樹立。]
[1960 年 『安田 矩明選手』 4 M 40 の日本記録を樹立。]

高さの限界が図られているその中で、1956 年頃から金属ポールに代わるグラスファイバーのポールの考案作成がジェンクス氏によって始まられていました。
グラスファイバーの特性は、そのねばりの強さと反発力の強さと軽量であることが上げられます。この時期はまだ世界記録を出すには至っていないのですが、今までの常識を覆すほどの用具になりうるであろうと感じ取られいた時期でしょう。徐々にですが、普及してきていることが記録からも見て取れます。

[1956 年 『ルーバニス選手 =ギリシャ』 4 M 50 で メルボルン・オリンピック 3 位]
[1960 年 『クルツ選手 =プエルトリコ』 4 M 55 で ローマ・オリンピック 4 位]

いずれもグラス・ポール(=グラスファイバー)で実績を残すことになってきたのです。このことはオリンピックでの実績ということで脚光を浴びることになります。
そしてついに「高さの限界は 16 フィート(= 4 M 87 )」と言われていた高さを越えるに至るのです。金属ポールでの世界記録をわずか 1 年の間で塗り替えていったのです。
これ以後選手の間でグラス・ポールの使用が多くなり、1964 年の東京オリンピックでは出場選手全員がグラス・ポールを使用するようになりました。

[1962 年 『J・ユールセス選手 =アメリカ』 4 M 89 の世界記録樹立]

棒高跳びの歴史は用具(=ポール)の歴史と言えるでしょう。棒高跳びは高さを追求する競技であります。「より高」く跳ぶには「より丈夫で軽い」「より長い」ポールを必要としてきました。ヒッコリーの棒から竹ポール、金属製ポール、そしてグラス・ポールへと用具は変化してきました。
グラス・ポールは大きな曲がりが生じて、その反発力は大きな力を得ることができます。それを充分に活かすのは身体能力であり、技術力によるところが多くなってきます。
ポールに大きな曲がりを要求するならば、踏み切りまでのスピードはより速くなければならないし、より高い位置にポールをかざして踏み切らなければならないです。そしてそれによってもたらされた反発力を効率よく活かすには、ドライブに移る時から身体とポールを一体化していかなくてはならないということです。
グラス・ポールが生み出すそれ自体の可能性と、その特性を完全に使いこなしていく技術力の可能性とが合致した時に、新たな記録を見ることが出来ることでしょう。
棒から竹に、そして金属へと変遷をしてきたポールが、グラスファイバーの開発によって棒高跳びの常識をくつがえしてきたことは周知の事実でしょう。技術の向上が用具の変遷を生み、その変遷が技術の向上をさらに生み出していくのです。
ここにひとつの記録があります。それは、より高く跳ぶための大きな要素であるポールのグリップ位置の変化の記録です。先に紹介した D・ブラッグ選手(=金属製ポール使用) のグリップ位置が 4 m 05 であるのに対して、S・ブブカ選手(=グラス・ポール使用)のグリップの位置は 5 m です。なんと 1 m も高く(=長い位置で)握ることができています。使用するポールのそれぞれの特性が表した数値であることと、その位置の違いを跳躍に結びつけてきた技術の向上が示す記録であると思われます。

[1994 年 『S・ブブカ選手』 6 M 14 の世界記録を樹立]
[2000 年 『横山 学選手』 5 M 70 の日本記録を樹立]

さて、今後の記録の更新はどこまで期待することが出来るのでしょうか、専門家の方に伺いますと現在のグラス・ポールでも 6 M 30 あたりの記録は期待できると言われます。さらにまた優れた研究の結果で、軽くて強いポールの開発がなされれば、記録の更新は多いに期待できるものと言われています。

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